引用
江戸時代の梅毒の蔓延状況について少し触れますと。
「下賎のもの百人中九十五人は梅毒にかからさるものなし」とは、幕府医学所頭取の松本良順が書いた『養生法』(1864)の記述です。まさか?江戸庶民の95%が梅毒に罹患していたのかと、疑いたくもなります。ですが、あの、『解体新書』の著者である、杉田玄白が70歳の時に書いた回想録の、『形影夜話』にも同様の記述があります。その中には、「病客は日々月々に多く、毎歳千人余りも療治するうちに、七八百は梅毒家なり」と記されています。何と彼が診療した年間の患者、1000人中700~800人は梅毒だったというのです。
当時の診断技術からすればこの数字の信頼性は疑問です。しかし、鈴木隆雄は、旧江戸市中から出土した900個以上の頭蓋骨を精査し、その梅毒性病変から梅毒患者の頻度は54.5%であったと推計しています。あくまでも大雑把な推定値であると言っていますが、江戸の成人のおよそ半数以上が梅毒に感染していたと考えて良いと思われます。
梅毒の蔓延は江戸に限ったことではなかったようです。沖縄では、感染者を「ふるつちえ」、未感染者を「みいつちえ:新人」と呼び、挨拶代わりに「みいつちえか、ふるつちえか?」と訪ねたといいます。こうした挨拶が平然と交わされた背景には、梅毒に感染したことを恥ずかしいこととは感じていない、当時の性風俗に対する認識があったと思います。
当時来日したキリスト教の宣教師フロイスは、「我々の間ではムーラ(横痃:梅毒による)にかかったら、それは不潔なこと、破廉恥なことである。しかし、日本では、男も女もそれを普通のこととして少しも恥じない」と驚いています。日本人が恥ずかしく感じなかったのは、梅毒と性行為の因果関係を知らなかったことに加え、公娼制度があったため、娼婦と交渉があっても恥じることがなかったのです。幕末に日本へ来て、初めて正式な西洋医学教育を行ったオランダ海軍軍医のポンペは、『ポンペ日本滞在記』の中で、遊女屋に対して厳重な医学的監督が必要であることを幕府に対し再三進言したが、身体はその人個人のものであるからと言って、全く聞き入れられなかったと回想しています。彼は「幕府は大切な義務を放棄している。その他の点ではあんなに美しい国なのに、政府の怠慢のために、年々何千人の人の家庭が不幸なめに会っている。」とも書いています。
「下賎のもの百人中九十五人は梅毒にかからさるものなし」とは、幕府医学所頭取の松本良順が書いた『養生法』(1864)の記述です。まさか?江戸庶民の95%が梅毒に罹患していたのかと、疑いたくもなります。ですが、あの、『解体新書』の著者である、杉田玄白が70歳の時に書いた回想録の、『形影夜話』にも同様の記述があります。その中には、「病客は日々月々に多く、毎歳千人余りも療治するうちに、七八百は梅毒家なり」と記されています。何と彼が診療した年間の患者、1000人中700~800人は梅毒だったというのです。
当時の診断技術からすればこの数字の信頼性は疑問です。しかし、鈴木隆雄は、旧江戸市中から出土した900個以上の頭蓋骨を精査し、その梅毒性病変から梅毒患者の頻度は54.5%であったと推計しています。あくまでも大雑把な推定値であると言っていますが、江戸の成人のおよそ半数以上が梅毒に感染していたと考えて良いと思われます。
梅毒の蔓延は江戸に限ったことではなかったようです。沖縄では、感染者を「ふるつちえ」、未感染者を「みいつちえ:新人」と呼び、挨拶代わりに「みいつちえか、ふるつちえか?」と訪ねたといいます。こうした挨拶が平然と交わされた背景には、梅毒に感染したことを恥ずかしいこととは感じていない、当時の性風俗に対する認識があったと思います。
当時来日したキリスト教の宣教師フロイスは、「我々の間ではムーラ(横痃:梅毒による)にかかったら、それは不潔なこと、破廉恥なことである。しかし、日本では、男も女もそれを普通のこととして少しも恥じない」と驚いています。日本人が恥ずかしく感じなかったのは、梅毒と性行為の因果関係を知らなかったことに加え、公娼制度があったため、娼婦と交渉があっても恥じることがなかったのです。幕末に日本へ来て、初めて正式な西洋医学教育を行ったオランダ海軍軍医のポンペは、『ポンペ日本滞在記』の中で、遊女屋に対して厳重な医学的監督が必要であることを幕府に対し再三進言したが、身体はその人個人のものであるからと言って、全く聞き入れられなかったと回想しています。彼は「幕府は大切な義務を放棄している。その他の点ではあんなに美しい国なのに、政府の怠慢のために、年々何千人の人の家庭が不幸なめに会っている。」とも書いています。
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